芦屋人たちの軌跡 スペシャルゲスト・インタビューVol.7
(テキスト記事はこちらからご覧ください。)
アンリ・シャルパンティエ創業者 蟻田尚邦氏(ありた・なおくに)~前編~
芦屋発 洋菓子ブランドとしていまや知らない人はいないほどのアンリ・シャルパンティエ。
その創業者で、現在は同社のブランド管理会社クールアースでブランド管理と
商品開発に力を注いでいる蟻田尚邦氏をインタビュー。
若き起業家や芦屋の人々に、創業者・経営者としての熱き思いを語っていただきました。
まずは、前編をお送りします。
―クレープ・シュゼットとの出会いは 印象的でしたか?
出会いというのは、どんな人にもあると思います。
大きいものから小さいもの、気づかないで通り過ぎるものもあります。 その中で、その出会いをいかにチャンスに持っていくか、それこそが大事なことなんだろうと思います。
ニュートンがリンゴが木から落ちてはっとしたこと、 蒸気機関車を発明した一人のスティーブンソンがヤカンの蓋が沸騰してカタカタいっていることに気づいたことなど、 発明者二人にだけ見えていたことではありません。 誰もがみたことのある光景を特別なものとして感じとる鋭さによって、チャンスをつかむことができたのです。
私にとっては、コック修業をしていた『アラスカ』でのクレープ・シュゼットとの出会いがそうでした。
―創業当初のご自身の心境・お店の様子をお聞かせ下さい。
最初は会社勤めのサラリーマンになりたかったんです。 大きい洋菓子屋にしようなんて思ってもみませんでした。 何とか一軒の店をうまくいかせて、食べていけたらいい、そんな気持ちでした。
開店当初、お客様が少なかったのですが、雑誌で取りあげられるようになったり、 百貨店から出店依頼があったりと少しずつ軌道に乗ってきました。 当時、芦屋には財界の人や文化人がたくさん住んでいて、 売れていなかった時も「おいしい、おいしい」と褒めて頂けまして…。 文化の薫る芦屋の人たちに育てられたと思っています。
―95年には阪神大震災がありましたが…。
1月17日に地震があって、ライフラインが止まり、阪神芦屋駅前の本店や工場はすぐに稼動できる状況ではありませんでした。 ですが、少しでも何か私たちにできることはないか?と、2月18日にはお店を開けました。 また、灯りが少しでも増えていってほしいと願い、再開してからは閉店後も夜の12時までは店内の灯りをつけていました。 「こんな非常時にぜいたくなケーキやお茶なんて誰も振り向いてくれないかもしれない」との不安も強かったのですが、 開店と同時にお客さんが入ってきてくれて店内に笑顔が溢れました。 それを見て、洋菓子は日本人にとってただの嗜好品ではなく必需品になっているんだ、と思いましたね。
この後、95年から売上が大幅に伸び、98年には年商100億円を超えた『アンリ・シャルパンティエ』。
後編は、見事に規模が拡大していった経緯とともに洋菓子界の牽引者としてブランド構築の難しさ・
大切さについて語っていただいています。お楽しみに!
株式会社 クールアース
代表取締役 蟻田 尚邦 氏
早稲田大学中退後、父親の友人の紹介で老舗レストラン『アラスカ』でコック修業を始める。 そこで、アンリ・シャルパンティエの名前の由来にもなっている青い炎のデザート“クレープ・シュゼット”に出会い、 鮮烈な衝撃を受け、料理担当からデザート担当に変更願いを出す。 そしてさらに多くの人にデザートのよさを味わってもらいたいと、1969年阪神芦屋駅前に喫茶店を開業。店名は “クレープ・シュゼット”を考案したフランス人パティシエから付けた『アンリ・シャルパンティエ』だった。
※掲載している情報は、2007.11.14の情報です。
そのため記載内容が、最新のものと異なる場合があります。