| 75年に百貨店に初出店し、それを機に新たに商品開発した焼き菓子の フィナンシェ・マドレーヌ等の日持ちする商品が大ヒット。 大阪、横浜、東京等の百貨店にも出店し、 96年には新ブランド『シーキューブ』を展開。 98年には売上高が100億円に。 阪神芦屋駅前の一洋菓子店は急速に大企業へと変化を遂げていく。 | | | ―98年には売上高が3年前(95年)の2倍100億円を超えました。 大企業の創業者として現在の気持ちを率直にお願いします。 | | | 95年の阪神大震災後、どんどん規模が大きくなり会社として伸びている時期に、 この伸びはいつまでも続くのか?と戸惑い、自問自答していました。 そして99年、アンリ社長を退任し、ブランド管理会社クールアースを設立しました。 直後、2001年にある市場調査会社の結果が自分の中の戸惑いと結びつきました。 我々のブランドは、関西では会社の知名度こそ高いものの既に過去のブランドで あり、東京ではその知名度はゼロという結果が出たのです。 そこで、商品パッケージや店舗デザイン、商品開発を軸にブランドの再構築・CIの 強化に専念することにしました。 | | 笑顔が素敵な蟻田氏 |
|
|
| |
―ブランドの再構築・CIの強化とはどんなことですか? 具体的に教えてください。 | | | まず第一に、洋菓子の本場フランスの色を濃くするため、パッケージを当時のロゴマークの印章を残しつつも新しいデザインを採用しました。 第二に、エルメス・ヴィトン等の一流ブランドのように常に世界最高水準の技術やデザイナーを登用し、モノ(商品)作りをすることを目指しました。 ちょうどその頃、パリでの常宿オテル・ド・クリヨン(5つ星ホテル)のレストランで食べたデザートが素晴らしかったので、パティシエの方を紹介してもらい、日本にも来てうちのケーキを食べて欲しいとお願いしたところ、二度ほどは日本に来てくれました。 その後も定期的に来てもらいたかったのですが、彼が忙しくて日本になかなか来られなかったのです。それなら、うちがパリに行けばいい、ということで、2002年にパリ6区に研究所を設立しました。 そのパティシエがデザート界の改革者と呼ばれ、フランス文化省から芸術文化勲章の騎士章を授与されたクリストフ・フェルデール氏です。 第三は、旗艦店を作ることでした。東京での知名度を上げるため、フランス人建築デザイナー、ジャン-フィリップ・ニュエル氏を起用し、銀座にパリのアパルトマンをイメージした銀座本店を作りました。 |
| |  |
|
オープン1年で約100誌の取材を受け、名実ともにアンリ・シャルパンティエの旗艦店となりました。2005年には、ここ芦屋にパリ郊外の邸宅をイメージした、メゾン アンリ・シャルパンティエを新たにオープンしました。芦屋の人たちが誇れるようなお店にしたいという気持ちも入っています。 ブランドは日本でいうと“のれん”ですよ。 “のれん”は棒で支えています。ぶら下がったり、よりかかったりしたら倒れます。昔から金看板と言いますが、絶えず磨いて支えていないとあかんと思います。 起業家の皆さんには、あなたの会社は理念を持っていますか?と聞きたいですね。利益をあげることは目標を達成させるうえで必要な事であるし、決して切り離せない大事なことではありますが、お金儲け だけを 目標にしてしまうと昨今の様な事件が発生してしまうと思いますね。 | |  | | 熱く語る蟻田氏 |
|
|
| |
 | | | 株式会社 クールアース | | | 代表取締役 | | | 蟻田 尚邦 氏 | | 早稲田大学中退後、父親の友人の紹介で老舗レストラン『アラスカ』でコック修業を始める。そこで、アンリ・シャルパンティエの名前の由来にもなっている青い炎のデザート“クレープ・シュゼット”に出会い、鮮烈な衝撃を受け、料理担当からデザート担当に変更願いを出す。そしてさらに多くの人にデザートのよさを味わってもらいたいと、1969年阪神芦屋駅前に喫茶店を開業。店名は“クレープ・シュゼット”を考案したフランス人パティシエから付けた 『アンリ・シャルパンティエ』だった。 |
| |
|
| | ―最後に、好きな言葉を教えてください。
| | | 松下政経塾で塾生から戦国時代の三大武将が読んだ句の中のどの句を選びますかと質問されたところ、「啼かぬなら それもよかろう ホトトギス」と詠んだ松下幸之助氏の言葉が好きです。大抵の人は、ホトトギスを啼くものだと思っています。こうあるべき、こうすべきという形に当てはめないで、柔軟な考えで、人に対しては欠点も認めて生かしていくのが経営者としての姿だと思います。 この句に、松下幸之助氏の経営者としての姿が現れていると思います。 |
|
|
| |