|  | | | | | 芦屋にはたくさんの伝説や民話が伝わっています。 ここではそれらの一部分をご紹介しています。 こうした話を知ってから、芦屋の街を歩くのも素敵です。 貴方も今の芦屋を歩きながら昔の芦屋に想いを馳せてみては? | | | | |
| |
|  | | | | | 六甲山の南のふもとの地帯は、海辺に向かって傾斜しています。 この地形を利用して、東は武庫川から、西は生田川のあたりまで、 灘の酒米をつく水車の利用が盛んでした。 このお話は、芦屋地域の水車にまつわる若者達の悲しい愛の物語です。
阪急芦屋川から川の右岸にそって北へ行き、開森橋をすぎると、 やがて「左城山・高座の滝」と記された道しるべがあります。 ここから右への道をたどりますと、民家の石垣に六角形や丸形をした 100あまりの石臼が並べてはめこまれていて驚かされます。 この道をさらに進むと、広々としたえん堤へつながっていますが、 その右岸あたりが金兵衛車のあったところと伝えられています。
むかし、芦屋川の水車谷には、十数輛の水車がコットン、 コットンとまわっていました。 灘の酒は、京都の御所や江戸の幕府へも納められるので、 その大切な酒米を精米する水車小屋は、 特別のあつかいを与えられていました。
毎年、定められたころになると、酒米をつくために、 近くや遠くの村から選ばれた若者たちが水車小屋へやってきました。
ある年、城山の麓にある金兵衛車と呼ばれた水車小屋に、 丹波の村から選ばれた若者が来ることになっていました。 若者には、ふるさとに愛する娘がいました。
二人は村の代表に 「どうか、このたびの芦屋谷へ行くことをおことわりさせてください」と 願い出ましたが、 「このたびのことは、一家の光栄であり、村全体の面目にかかわることじゃ。 心して仕えてくるように」といわれ、許してもらえませんでした。
若者は悲しい思いで娘と別れて水車谷へ来ました。 水車小屋の主人は、この水車は特別のあつかいを受けていること、小屋へ入る前には芦屋川で体を清めてくること、
特に大切な酒米をつかねばならないこと、仕事をしているときは誰とも無駄話をしないこと、米をつき終わるまでは、
決して外へ出てはならないと厳しく言いわたしました。
若者は愛する娘のことを思いながら、言われたとおり一生懸命に働いていました。
一方、娘も若者への思いを胸にだいて過ごしていましたが、両親から他の家へ嫁入りをするように責められました。 娘は悲しさのあまり逃げるようにして、はるばる芦屋の里へたどりつき、金兵衛車の小屋を訪ねました。 しかし、いくら戸をたたいても誰も出てきませんでした。
ようやく小屋から顔を出した水車の主人に、若者に会えるよう頼みました。
主人は「酒米をつき終わるまでは誰にも会わせない。これがこの水車の定めじゃ」と、
全くとりあってくれませんでした。
その後、娘は何回も訴えましたが、若者の姿すら見られず、ただ水車の音が聞こえるだけでした。
日の落ちた城山の山道を行き来するうちに、娘の着物は破れ、狂ったような姿となり、
村人にも異様な姿に見えるのでした。
六甲の山が濃い霧につつまれたある夜のこと、娘はどこからか折ってきたサカキの枝を
手に持って金兵衛車の前に立ちました。
もはや娘のやさしさは消え、髪は乱れて目はらんらんと輝き、
恐ろしい姿となって若者の名を呼び続け、呪文を唱えながら水車小屋のまわりをかけめぐるのでした。 そのうち、娘の体からあやしい青白い光が出はじめたと思うと、
大きな炎となって空高く舞い上がってしまいました。
その夜、金兵衛車は小屋ともども焼き尽くされ、
水車の主人も若者も再びその姿を見ることはありませんでした。
このことがあってから村人達は、この水車のことを「金兵衛車やけ車」と呼び、
子供たちも”金兵衛車やけ車”と歌うようになったということです。 | | | 参考文献 | | 『六甲』昭和八年 竹中精一著 伝承による。 | | | 「芦屋子ども風土記」より転載 | |
|
| | | | | | | | | | | |  | | 「金兵衛車やけ車」の舞台となった芦屋川は現在も芦屋の街をゆるやかに流れています。 お散歩のコースとして芦屋川の景色を楽しんでいる方も少なくありません。
また、春には大勢の人が花見に集まるなど、芦屋の憩いの場所といえるかもしれません。 | |  | | | 現在の芦屋川 |
| | | | | | | | | | |
| | | | |
|
|
|
|
|
|