現在のナフィーサさん一家にとって日本が最も身近な存在になったきっかけは、
今から100年も前のナフィーサさんの夫の祖父の時代にさかのぼります。祖父は
1905年(明治38年)に日本とインドの貿易会社を設立しますが、第二次世界大
戦の戦火にて家や工場をすべて焼かれ一旦インドに戻らざるを得なくなります。
その後かの有名なGHQマッカーサー総司令官より「日本の貿易を盛り立てて
欲しい」との依頼のもとに再び日本での貿易を再開しました。
ナフィーサさん自身は1970年(昭和45年:大阪万博の年)に日本に移り住み、
以来ずっとこの芦屋で生活をしてきました。現在ではナフィーサさんの夫が会社を
受け継ぎ、今年で設立100周年を迎えます。(私自身、取材が始まってこんなに
日本と関わりが深い一家であることにまず驚きました。)しかしながら、流暢な
日本語でやさしく語りかけるナフィーサさんも、来日当初は日本に馴染めず、特に
言葉の壁は大きく、なかなか日本の友人が出来なかったといいます。そんな時大
家族での生活は寂しさを癒してくれ、改めて家族の大切さを感じたそうです。
日本の約8.4倍の広大な国土を持つインドは、10億人を超える国民がそれぞれの
州で様々な言語や文化、宗教を信仰しています。土地によってそれぞれ言語や
生活習慣が違うので容易く引越しすることも出来ないことから、何世帯もの家族が
まとまって生活することがごく自然な風習になっているそうです。
異国の人に対して自ら心を開くという意識がまだまだ薄い日本という国で、自国
インドの文化や伝承料理を自ら伝え、少しずつ日本人との交流を深めてきたナフィー |
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サさん。
そして阪神大震災の時には、日本の友人が
大阪〜芦屋間を自転車に乗って水や食料を
運んできてくれたことんできてくれたことや
余震がおさまるまで数日の間、子供たちを
自分の家族のように家に泊めて、面倒を見
て頂いたことが本当に嬉しかったと涙をうっす
ら浮かべながら語ってくれたのがとても印象
的でした。インド人は友達になるととてもフレ
ンドリーに接してくれます。
取材に行った私たちをも大家族の一員と
同じように暖かく迎え入れてくれました。
また、インドの子供が心待ちにするという、
雨の日だけ食べられるおやつ「PAKORA
(パコラ)」(写真左)を娘のヤミナさんと一緒
に作り、振舞ってくれました。
ほうれん草とチャナ豆というインドの豆の粉と
数種のスパイスを水で練り合わせ、油で揚げ
た家庭のおやつです。インドならではのスパ
イスの風味とカリッとした衣がなんとも香ばし
く美味でした。
今回このような素晴らしい人や文化に触れ
合う事ができ、これからいつも街で見掛けて
いる外国人の方たちの見方が変わりそうです。
国際文化住宅都市芦屋で、是非みなさんも
身近に新たなお友達を作ってみませんか。 |
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